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プロローグ 愉悦の視線
暗がりに人の気配がした。葛城莢は、弾かれたようにそちらに視線を向ける。横に動かした首は、すぐ正面に戻された。葛城征の手によって。
「何もいないよ」
誰も、ではなく、何も、と征は言った。その表現で正しいことを、莢は知っている。闇に蠢くのは、人ではないものたちだ。
「よそ見しないで」
命じる声は甘いが、有無を言わせぬ強さを含んでいる。莢が二度とよそ見をしないように、征は、莢の首に手をかける。頬ではなく、首に。
そんなことをしなくても、自分は逃げない。意識があろうとなかろうと、逃げたりしない。
そのことを征に教えてやれば、きっと征はこの手を離すだろう。
だから莢は、わざと教えない。
閉ざされた部屋。入り口は閉じられている。窓もない。
百五十年の時を経た土蔵は、適度に湿っぽく、薄暗い。
「こっち、見て」
子供のような口調で征がねだる。そういう征の顔は大人びてはいるが、年齢不詳だ。征が年を取らないのは、異界に通じているせいか。時折莢は、そんなふうに思う。あながち間違ってはいないだろう。
征の姿は、莢が記憶する限り、二十年近く変わっていない。
豊かな黒髪に指を通す。さらさらとした感触が指の腹に心地好い。
莢がそうすると、征も同じように莢の髪を撫でる。二人の髪の色と手触りは、よく似ていた。掃除する時、床に落ちていても、どちらのものか区別はつかない。どちらかが極端な長髪か短髪にでもしない限りは。
「僕だけを、見て」
もう一度、囁きが繰り返される。莢は目を閉じて、それに答えない。
見ている。ずっと。目を閉じていても、気配は追える。それは征と莢、両方が兼ね備えた、異能だった。
(―――――――早く)
もどかしげに、莢は腰を捩る。背中に当たる布団の感触が冷たい。
早く、して欲しい。もっと、強く、乱暴に。
優しい愛撫なんて要らないから、早く。
征はきっと、莢の本質を見抜いているだろう。普段は、こんなふうに優しくしない。焦れったくもしない。
外でもない莢を、悦ばせるために。
だから今、征の愛撫が緩慢であるのは、何か莢に対して思うところがあるからに違いない。たとえば、と莢は記憶を掘り起こす。
たとえば莢が、大学の女友達と映画に行ったこととか。
(チケットが余っていたんだ。それに彼女は以前映画館で痴漢にあって、恐怖症になっていた。俺はボディガードを頼まれただけだ)
莢の言い分を、征は一笑に付した。
『そんなのは、莢を誘うための口実に決まってる』
(でも、征さんだって)
莢は征のシャツに、爪を立てた。征の女性関係のほうがずっと派手であることを、莢は、子供の頃から見て知っている。そのことについて、自分に何か言う権利があるわけでもないということも理解している。
独身の征が誰とつきあおうが、彼の自由だ。
だから莢は、何も言わない。かわりに、爪痕だけを彼の肌に残しておく。
(こんな、こと)
莢の着衣はすでに剥がされている。征は、まだ服を着たままだ。シャツのボタンしか外していない。
「……あ……ッ」
胸板に手を這わされて、莢の口から声が漏れる。幾夜にも亘って触れられてきたそこは、敏感になり過ぎていた。そこを弄られたくなくて、莢は征の手首を掴み、外させようとする。
すると征は、空いているほうの左手を、莢の局部に伸ばした。
「あぅ……ッ」
乳嘴を弄られた時よりもずっと高い声が溢れる。莢の、男にしては白い太腿の付け根にあるそれは、すでに興奮の兆しを見せていた。半分ほど頭を擡げた茎に、征の指が絡みつく。
「……ふ……」
待ちかねていたように、莢のそれはひくりと震えた。先端の小穴から、じわりと熱い蜜が漏れる。
征はそれを指の腹に絡めると、莢の尻の奥をまさぐった。
「可愛い……莢」
囁く声は甘い。莢は顔を背け、それに応じない。
征は、いつだってこういう声だ。誰に対しても、甘い声だ。
地声なのだから仕方ないだろうと言ったのは征自身だが、そんな『言い訳』を莢は受け容れない。
莢の一番恥ずかしい部分に触れながら、征は囁いた。
「女の子みたいに、ヒクヒクしてるね」
「……い、やらしぃ、こと、言わな、ぃで、下さい……っ」
莢は顔を赤らめ、胸郭を上下させながら精一杯、怒った。その怒りは、針で刺す程度の痛みも征には与えられないだろう。
「早く終わらせて、っていつも言うのは、莢じゃないか。莢は、こうやって」
「ンぅっ……!」
莢自身の先走りでぬめる指が二本、莢の肉孔に押し入ってくる。征の指摘通り、莢のそこはさっきからずっとヒクついていた。
「ここを、こうすれば……ほら」
「う……ぅ……ッ」
きつく口を閉ざしていたはずの窄まりは、征の指で触れられた途端、待ちかねていたように甘く媚びるように緩んだ。
本編へ続く
暗がりに人の気配がした。葛城莢は、弾かれたようにそちらに視線を向ける。横に動かした首は、すぐ正面に戻された。葛城征の手によって。
「何もいないよ」
誰も、ではなく、何も、と征は言った。その表現で正しいことを、莢は知っている。闇に蠢くのは、人ではないものたちだ。
「よそ見しないで」
命じる声は甘いが、有無を言わせぬ強さを含んでいる。莢が二度とよそ見をしないように、征は、莢の首に手をかける。頬ではなく、首に。
そんなことをしなくても、自分は逃げない。意識があろうとなかろうと、逃げたりしない。
そのことを征に教えてやれば、きっと征はこの手を離すだろう。
だから莢は、わざと教えない。
閉ざされた部屋。入り口は閉じられている。窓もない。
百五十年の時を経た土蔵は、適度に湿っぽく、薄暗い。
「こっち、見て」
子供のような口調で征がねだる。そういう征の顔は大人びてはいるが、年齢不詳だ。征が年を取らないのは、異界に通じているせいか。時折莢は、そんなふうに思う。あながち間違ってはいないだろう。
征の姿は、莢が記憶する限り、二十年近く変わっていない。
豊かな黒髪に指を通す。さらさらとした感触が指の腹に心地好い。
莢がそうすると、征も同じように莢の髪を撫でる。二人の髪の色と手触りは、よく似ていた。掃除する時、床に落ちていても、どちらのものか区別はつかない。どちらかが極端な長髪か短髪にでもしない限りは。
「僕だけを、見て」
もう一度、囁きが繰り返される。莢は目を閉じて、それに答えない。
見ている。ずっと。目を閉じていても、気配は追える。それは征と莢、両方が兼ね備えた、異能だった。
(―――――――早く)
もどかしげに、莢は腰を捩る。背中に当たる布団の感触が冷たい。
早く、して欲しい。もっと、強く、乱暴に。
優しい愛撫なんて要らないから、早く。
征はきっと、莢の本質を見抜いているだろう。普段は、こんなふうに優しくしない。焦れったくもしない。
外でもない莢を、悦ばせるために。
だから今、征の愛撫が緩慢であるのは、何か莢に対して思うところがあるからに違いない。たとえば、と莢は記憶を掘り起こす。
たとえば莢が、大学の女友達と映画に行ったこととか。
(チケットが余っていたんだ。それに彼女は以前映画館で痴漢にあって、恐怖症になっていた。俺はボディガードを頼まれただけだ)
莢の言い分を、征は一笑に付した。
『そんなのは、莢を誘うための口実に決まってる』
(でも、征さんだって)
莢は征のシャツに、爪を立てた。征の女性関係のほうがずっと派手であることを、莢は、子供の頃から見て知っている。そのことについて、自分に何か言う権利があるわけでもないということも理解している。
独身の征が誰とつきあおうが、彼の自由だ。
だから莢は、何も言わない。かわりに、爪痕だけを彼の肌に残しておく。
(こんな、こと)
莢の着衣はすでに剥がされている。征は、まだ服を着たままだ。シャツのボタンしか外していない。
「……あ……ッ」
胸板に手を這わされて、莢の口から声が漏れる。幾夜にも亘って触れられてきたそこは、敏感になり過ぎていた。そこを弄られたくなくて、莢は征の手首を掴み、外させようとする。
すると征は、空いているほうの左手を、莢の局部に伸ばした。
「あぅ……ッ」
乳嘴を弄られた時よりもずっと高い声が溢れる。莢の、男にしては白い太腿の付け根にあるそれは、すでに興奮の兆しを見せていた。半分ほど頭を擡げた茎に、征の指が絡みつく。
「……ふ……」
待ちかねていたように、莢のそれはひくりと震えた。先端の小穴から、じわりと熱い蜜が漏れる。
征はそれを指の腹に絡めると、莢の尻の奥をまさぐった。
「可愛い……莢」
囁く声は甘い。莢は顔を背け、それに応じない。
征は、いつだってこういう声だ。誰に対しても、甘い声だ。
地声なのだから仕方ないだろうと言ったのは征自身だが、そんな『言い訳』を莢は受け容れない。
莢の一番恥ずかしい部分に触れながら、征は囁いた。
「女の子みたいに、ヒクヒクしてるね」
「……い、やらしぃ、こと、言わな、ぃで、下さい……っ」
莢は顔を赤らめ、胸郭を上下させながら精一杯、怒った。その怒りは、針で刺す程度の痛みも征には与えられないだろう。
「早く終わらせて、っていつも言うのは、莢じゃないか。莢は、こうやって」
「ンぅっ……!」
莢自身の先走りでぬめる指が二本、莢の肉孔に押し入ってくる。征の指摘通り、莢のそこはさっきからずっとヒクついていた。
「ここを、こうすれば……ほら」
「う……ぅ……ッ」
きつく口を閉ざしていたはずの窄まりは、征の指で触れられた途端、待ちかねていたように甘く媚びるように緩んだ。
本編へ続く








「おまえもさぁ、モテるのに続かないよな」
しみじみと語られた言葉を否定する材料は、ない。実際に幸久は、大学に入学してからの二年あまり、フラれてばかりだ。
「うん。彼女たちの期待に応えてあげられなくて、悪いなぁ……って思う」
「女は、おまえの見てくれに目が眩んで中身まで見えてないんだろうな。遊び慣れたイケメンかと思ったら、真面目くんでつまんない……詐欺みたいなもんだとか、ヒデェ言われよう。その前の彼女には、幸久といたら『カレシ』じゃなくて『お父さん』といるみたい、って言われてなかったか?」
「そうだっけ? それを言われたの、二人や三人じゃないからなぁ……」
一度や二度でなく女の子から投げつけられた捨てゼリフを思い浮かべながら、遠い目をしてしまった。
どうも自分は、女の子たちの期待に沿うことができないらしい。
秋原曰く、外見は今時のイケメンで上手に遊んでそう……らしいのだが、実際の自分は地味で頭の固い『つまらない人間』だ。
おつき合いを始めて一週間、「キスどころか手も握らないなんて」と頬を膨らませて不満をぶつけられ、「そういったことは、もう少し互いのことを知ってからのほうがいいのでは」と思うまま言い返して、呆れられたことも数知れず。
「じいちゃんとばあちゃんには、女の子には優しくしろ……傷つけるなと言われてるから、おれは、その通りにしているだけなんだけど」
幸久にしてみれば、自分のなにが間違っているのかわからない。
育ての親である祖父母に言われた通りに、女の子を傷つけないよう最大限に気をつけているつもりなのだ。
女の子たちは、小さくて、見るからにやわらかそうで……ふわふわ甘い砂糖菓子みたいで。不用意に手を出せば、壊してしまいそうでなんだか怖い。
以前、そう語った幸久に秋原は「いや、アイツらはおまえが思うよりずっと逞しいぞ」と返してきたけれど、やはり幸久にとっては慎重に扱うべき存在だ。
首を傾げて悩む幸久に、秋原は呆れの滲む顔で苦笑している。
「それも、ちょーっとズレてると思うぞ。傷つけたくないから、オツキアイしてくださいって言い寄ってくる女を全部受け入れて、挙げ句に最長でも一ヶ月そこそこの交際期間、ってさぁ。鈍感っつーか……天然って、罪作りだよな」
「テンネン……かな。どちらかと言えば、直毛の剛毛だと思うんだけど」
秋原のほうが、天然パーマのふわふわした髪ではないだろうかと思いながら、自分の前髪を指先でつまむ。
言葉もなく特大のため息をついた秋原が、ポンと幸久の肩に手を乗せた。
「もうさ、本当のおまえを理解してくれる女が現れるまで、そのままでいろ。とりあえず、来るもの拒まずじゃなくて、相手を選ぶところから始めようか」
「選ぶって、上から目線……女の子に失礼じゃないか? つき合ってくれないと、泣くから……って言われたら、『いいよ』ってうなずく以外にないだろ」
「だからさぁ、誰でもOKするほうがいい加減っつーか、不誠実なんだって! おまえの中身を知らない男どもには、やっかみ交じりに極悪な遊び人認定されてるんだぞ。そのせいで、軽く自分から声をかけるタイプの女ばっかり集まってきて……悪循環だな」
眉をひそめた秋原は、「この顔面が悪い」と言いながら幸久の頭を両手で掴み、髪をグシャグシャとかき乱した。
「うわわ、やめ……目が回る、って」
容赦なく頭を揺さぶられたせいで、目の前がクラクラする。
秋原の手から逃れた幸久は、乱れた髪を簡単に手で撫でつけながら頭に浮かんだ解決策を口にした。
「そうだ。タイミングよく帰ってくるから、慶士郎さんに、どうすればいいか訊いてみようかな。大人ってだけでなく、格好いいからすごくモテるだろうし……女の子に怒られない方法も、たくさん知ってそう」
一番身近に、適切なアドバイスをくれそうな適任者がいた。
同性から見ても極上の男の部類に入る大人の高瀬なら、女性慣れしていそうだし……怒らせずに異性をあしらう術も知っているに違いない。
名案だと目を輝かせている幸久に、秋原は首を捻る。
「んー……高瀬さんって、いくつだっけ? おまえがバイトしてた時に飲み屋でチラッと顔を合わせただけだから、あんまり記憶にないんだけど……確かに、妙な迫力のある男前だったような気がする。あの手合いは、モテるだろうな」
「えっと、去年初めて逢った時は二十八のはずだったから、今は二十九……になってるかな。たぶん、それくらい」
「ふーん……今度さ、きちんと紹介しろよ。おまえの話を聞いてるだけでも、興味深い変……じゃなくて、自由人って感じだし、いろいろ面白そう」
変人、と言いかけた秋原を幸久が睨んだことがわかったのか、秋原は無難な単語に言い換えてそう笑う。
「慶士郎さんに聞いてみる。今回は、どれくらい日本にいるかわかんないけど。またすぐ、どっかに行くのかな。慶士郎さんの家なんだから、もっとゆっくりしたらいいのに。ベッドカバーも干してあるし、タオルも新しいのを用意したし、歯ブラシとか髭剃り用の剃刀も新調して……あ、ビール買って帰んなきゃ! 黒ヱビス!」
家主である高瀬を迎える準備は、完璧だ……と指折り数えていた幸久だったけれど、最重要とも言えるうっかりミスに気がついた。
自分がビールを飲まないせいもあって、冷蔵庫に常備していないのだ。
「……ラブラブな新婚サンかよ。なんかさぁ、おまえの慶士郎さん好きって、もう恋のレベルだよな」
午後の講義を終えてビールを買ってマンションに帰って……高瀬の帰宅に間に合うだろうかと、腕時計を見ながらそわそわし始めた幸久に、秋原は苦笑を深くする。
唐突な『恋』という単語に、幸久は目をしばたたかせて秋原を見つめ返した。
「なに言ってんの、秋原? そりゃ、慶士郎さんと一緒にいるのは女の子たちといるより楽しいし……ドキドキするけど。残念ながら、アッチもおれも、男。恋って、女と男のあいだでのみ成立する現象じゃないのか?」
「おいおい、その言い分だと問題はソコだけって感じだな。世の中、必ずしも男と女だけがカップルになるわけじゃないんだぞー……なーんて」
あはは、と笑う秋原をキョトンとした顔で見ていた幸久だったけれど……目からポロリと鱗が落ちた。
男と女だけがカップルになるわけではない? それなら、自分と高瀬でも、おかしいわけではないのか?
「そっか。恋か」
ポン、と。右手で作った拳を、左手のひらに打ちつける。
幸久にとって高瀬は、初めてまともに話した時から敬愛の象徴のようなものだった。
男らしくて、格好よくて……頼もしくて。酔った客に絡まれていた幸久を助けてくれた際の凜々しい姿は、まるで勇者のようだった。
あんなふうになりたいと目標にするのもおこがましくて、ただひたすら憧れていたのだけれど……この胸のトキメキの名前など、考えたこともなかった。
これを恋と呼称する術もあるのだと、初めて腑に落ちた。
「おーい……変な方向に暴走するなよ? なんだ、そのキラキラした目は。もしもし、幸久クン? なに考えてる? ちょ……ちょっと、おいおい」
なにやら慌てている秋原をよそに、幸久は一人で「うんうん。そっか、わかった。これは恋か」とうなずく。
胸の片隅で、なんとなくモヤモヤしていたものの答えが出た。
「秋原のおかげで、わかった。おれ、慶士郎さんが好きなんだ。恋愛するのは女の子じゃないとって、思い込んでたから……今までは全然結びつかなかったけど、女の子じゃなくてもいいのなら、慶士郎さんが一番好きだ」
導き出された結論を真剣に語っていると、幸久を見ていた秋原が少しずつ目尻を下げ……泣きそうな顔になる。
「マジかぁ? あああああ、俺のアホー。なに、天然にヒントをやってんだよ。つーか、おまえはそれでいいのか? 我に返れよ、幸久っ」
そう言いながら肩を掴んで揺さぶられても、今の幸久は取り乱してなどいないのだから我に返りようがない。
「おれ、正気だよ。なんか、すっごくスッキリした。そっか、慶士郎さんがやたらと格好よく見えるのは、恋だからなんだな」
「違っ……そうじゃないかもしれないだろ。自己暗示をかけんなよっ」
変に焦っているらしい秋原に、幸久は首を傾げて言い返す。
「おまえが言ったんだろ。恋だ……って」
「幸久が真に受けるなんて、思わなかったんだよっ。つーか、冷静に考えたらおかしいと思わないのかっ?」
「思わないけど。……あ、もうすぐ午後の授業が始まる。奨学金を打ち切られたら困るから、遅刻厳禁!」
腕時計を確認した幸久は、空になった食器が載ったトレイを手にして腰かけていたイスから勢いよく立つ。
「うぅ……やっぱり天然はタチが悪い。脇道っつーか、道なき荒野に向かって暴走してる幸久は高瀬さんが正しい道に戻してくれるだろうけど、メンドクセーことしやがって、って無用の恨みを買いそうだなぁ。でも、おれが悪いのか?」
なにやら苦悩しているらしく、ぶつぶつと独り言をこぼしながら頭を抱えてテーブルに突っ伏している秋原に、
「おれ、行くよ。かつ丼、ごちそうさま」
と告げて、足早に食器の返却口へと向かった。
高瀬に対する慕わしさの正体は『恋』か。
そう明確な答えが出たせいか、幸久は実に清々しい気分だった。帰国する高瀬を迎えるのが、ますます楽しみだ。
□ □ □
「秋原のせいで、慶士郎さんの顔を見たら変にドキドキしそう。つーか、一番になにを言おうかなぁ。まず、お帰りなさい……で、ビール買ってきたよ?」
急ぎ足でマンションに向かう幸久の右手で、コンビニの袋がガサガサと揺れている。中に入っている六缶パックのビールは、もちろん高瀬のためのものだ。
三日前に送られてきたメールには、帰国予定日として今日の日付しか記されていなかった。ハッキリとした帰着時間は聞いていないけれど、日付が変わらないうちにはマンションに帰ってくるだろう。
「前回帰国した時は、マンションに着いたの夜の十時過ぎだったもんなぁ。とりあえず、煮物は八割くらいできてるから……お米を洗って炊飯器を早炊きの設定にしておいて、茶碗蒸しは蒸せばいいだけの状態にしておくかな。煮物は味が染みるから早く作っておいてもいいけど、茶碗蒸しはできたてのアツアツが一番!」
そうしてのんびりと独り言をこぼしながら、普段より少しだけ早足でマンションの廊下を歩く。
ポケットから取り出した鍵を、扉の鍵穴に差し込んで捻り……手応えのなさに「あれ?」と首を捻った。
慌ててドアノブを掴んで引くと、玄関扉はあっさりと開いた。
「な、なんでっ?」
朝、出がけに自分が戸締りを失念したのでなければ、鍵を所有しているこの部屋の主が戻っているに違いない。
一歩入って視線を落とすと、玄関のど真ん中に、くたびれた大きなトレッキングシューズがある。
その脇に慌てて靴を脱ぎ捨てた幸久は、小走りで照明の灯されているリビングに駆け込んだ。
「慶士郎さん、帰ってんのっ?」
ソファの背からは、肩から上が覗いていて……テレビに向かっていた男が、ゆっくりと振り返る。
少し伸びかけた黒い髪、きりっとした涼しげな切れ長の目にスッと通った鼻筋……端整な容貌は、記憶にあるままだ。
高瀬は、国外に出ていた約一ヶ月のブランクをまるで感じさせない笑顔を向けてくる。
「おー……ユキちゃん、ただいま。つーか、お帰り。今日もご苦労さん、勤労学生」
唇から出たのは、まるで昨日もそうして幸久の帰宅を出迎えたような、のん気な言葉だ。
大学の友人からは呼ばれることのない、身内以外では高瀬しか口にしない愛称で呼びかけられた幸久は、トクンと心臓が高鳴るのを感じた。
本編へ続く
しみじみと語られた言葉を否定する材料は、ない。実際に幸久は、大学に入学してからの二年あまり、フラれてばかりだ。
「うん。彼女たちの期待に応えてあげられなくて、悪いなぁ……って思う」
「女は、おまえの見てくれに目が眩んで中身まで見えてないんだろうな。遊び慣れたイケメンかと思ったら、真面目くんでつまんない……詐欺みたいなもんだとか、ヒデェ言われよう。その前の彼女には、幸久といたら『カレシ』じゃなくて『お父さん』といるみたい、って言われてなかったか?」
「そうだっけ? それを言われたの、二人や三人じゃないからなぁ……」
一度や二度でなく女の子から投げつけられた捨てゼリフを思い浮かべながら、遠い目をしてしまった。
どうも自分は、女の子たちの期待に沿うことができないらしい。
秋原曰く、外見は今時のイケメンで上手に遊んでそう……らしいのだが、実際の自分は地味で頭の固い『つまらない人間』だ。
おつき合いを始めて一週間、「キスどころか手も握らないなんて」と頬を膨らませて不満をぶつけられ、「そういったことは、もう少し互いのことを知ってからのほうがいいのでは」と思うまま言い返して、呆れられたことも数知れず。
「じいちゃんとばあちゃんには、女の子には優しくしろ……傷つけるなと言われてるから、おれは、その通りにしているだけなんだけど」
幸久にしてみれば、自分のなにが間違っているのかわからない。
育ての親である祖父母に言われた通りに、女の子を傷つけないよう最大限に気をつけているつもりなのだ。
女の子たちは、小さくて、見るからにやわらかそうで……ふわふわ甘い砂糖菓子みたいで。不用意に手を出せば、壊してしまいそうでなんだか怖い。
以前、そう語った幸久に秋原は「いや、アイツらはおまえが思うよりずっと逞しいぞ」と返してきたけれど、やはり幸久にとっては慎重に扱うべき存在だ。
首を傾げて悩む幸久に、秋原は呆れの滲む顔で苦笑している。
「それも、ちょーっとズレてると思うぞ。傷つけたくないから、オツキアイしてくださいって言い寄ってくる女を全部受け入れて、挙げ句に最長でも一ヶ月そこそこの交際期間、ってさぁ。鈍感っつーか……天然って、罪作りだよな」
「テンネン……かな。どちらかと言えば、直毛の剛毛だと思うんだけど」
秋原のほうが、天然パーマのふわふわした髪ではないだろうかと思いながら、自分の前髪を指先でつまむ。
言葉もなく特大のため息をついた秋原が、ポンと幸久の肩に手を乗せた。
「もうさ、本当のおまえを理解してくれる女が現れるまで、そのままでいろ。とりあえず、来るもの拒まずじゃなくて、相手を選ぶところから始めようか」
「選ぶって、上から目線……女の子に失礼じゃないか? つき合ってくれないと、泣くから……って言われたら、『いいよ』ってうなずく以外にないだろ」
「だからさぁ、誰でもOKするほうがいい加減っつーか、不誠実なんだって! おまえの中身を知らない男どもには、やっかみ交じりに極悪な遊び人認定されてるんだぞ。そのせいで、軽く自分から声をかけるタイプの女ばっかり集まってきて……悪循環だな」
眉をひそめた秋原は、「この顔面が悪い」と言いながら幸久の頭を両手で掴み、髪をグシャグシャとかき乱した。
「うわわ、やめ……目が回る、って」
容赦なく頭を揺さぶられたせいで、目の前がクラクラする。
秋原の手から逃れた幸久は、乱れた髪を簡単に手で撫でつけながら頭に浮かんだ解決策を口にした。
「そうだ。タイミングよく帰ってくるから、慶士郎さんに、どうすればいいか訊いてみようかな。大人ってだけでなく、格好いいからすごくモテるだろうし……女の子に怒られない方法も、たくさん知ってそう」
一番身近に、適切なアドバイスをくれそうな適任者がいた。
同性から見ても極上の男の部類に入る大人の高瀬なら、女性慣れしていそうだし……怒らせずに異性をあしらう術も知っているに違いない。
名案だと目を輝かせている幸久に、秋原は首を捻る。
「んー……高瀬さんって、いくつだっけ? おまえがバイトしてた時に飲み屋でチラッと顔を合わせただけだから、あんまり記憶にないんだけど……確かに、妙な迫力のある男前だったような気がする。あの手合いは、モテるだろうな」
「えっと、去年初めて逢った時は二十八のはずだったから、今は二十九……になってるかな。たぶん、それくらい」
「ふーん……今度さ、きちんと紹介しろよ。おまえの話を聞いてるだけでも、興味深い変……じゃなくて、自由人って感じだし、いろいろ面白そう」
変人、と言いかけた秋原を幸久が睨んだことがわかったのか、秋原は無難な単語に言い換えてそう笑う。
「慶士郎さんに聞いてみる。今回は、どれくらい日本にいるかわかんないけど。またすぐ、どっかに行くのかな。慶士郎さんの家なんだから、もっとゆっくりしたらいいのに。ベッドカバーも干してあるし、タオルも新しいのを用意したし、歯ブラシとか髭剃り用の剃刀も新調して……あ、ビール買って帰んなきゃ! 黒ヱビス!」
家主である高瀬を迎える準備は、完璧だ……と指折り数えていた幸久だったけれど、最重要とも言えるうっかりミスに気がついた。
自分がビールを飲まないせいもあって、冷蔵庫に常備していないのだ。
「……ラブラブな新婚サンかよ。なんかさぁ、おまえの慶士郎さん好きって、もう恋のレベルだよな」
午後の講義を終えてビールを買ってマンションに帰って……高瀬の帰宅に間に合うだろうかと、腕時計を見ながらそわそわし始めた幸久に、秋原は苦笑を深くする。
唐突な『恋』という単語に、幸久は目をしばたたかせて秋原を見つめ返した。
「なに言ってんの、秋原? そりゃ、慶士郎さんと一緒にいるのは女の子たちといるより楽しいし……ドキドキするけど。残念ながら、アッチもおれも、男。恋って、女と男のあいだでのみ成立する現象じゃないのか?」
「おいおい、その言い分だと問題はソコだけって感じだな。世の中、必ずしも男と女だけがカップルになるわけじゃないんだぞー……なーんて」
あはは、と笑う秋原をキョトンとした顔で見ていた幸久だったけれど……目からポロリと鱗が落ちた。
男と女だけがカップルになるわけではない? それなら、自分と高瀬でも、おかしいわけではないのか?
「そっか。恋か」
ポン、と。右手で作った拳を、左手のひらに打ちつける。
幸久にとって高瀬は、初めてまともに話した時から敬愛の象徴のようなものだった。
男らしくて、格好よくて……頼もしくて。酔った客に絡まれていた幸久を助けてくれた際の凜々しい姿は、まるで勇者のようだった。
あんなふうになりたいと目標にするのもおこがましくて、ただひたすら憧れていたのだけれど……この胸のトキメキの名前など、考えたこともなかった。
これを恋と呼称する術もあるのだと、初めて腑に落ちた。
「おーい……変な方向に暴走するなよ? なんだ、そのキラキラした目は。もしもし、幸久クン? なに考えてる? ちょ……ちょっと、おいおい」
なにやら慌てている秋原をよそに、幸久は一人で「うんうん。そっか、わかった。これは恋か」とうなずく。
胸の片隅で、なんとなくモヤモヤしていたものの答えが出た。
「秋原のおかげで、わかった。おれ、慶士郎さんが好きなんだ。恋愛するのは女の子じゃないとって、思い込んでたから……今までは全然結びつかなかったけど、女の子じゃなくてもいいのなら、慶士郎さんが一番好きだ」
導き出された結論を真剣に語っていると、幸久を見ていた秋原が少しずつ目尻を下げ……泣きそうな顔になる。
「マジかぁ? あああああ、俺のアホー。なに、天然にヒントをやってんだよ。つーか、おまえはそれでいいのか? 我に返れよ、幸久っ」
そう言いながら肩を掴んで揺さぶられても、今の幸久は取り乱してなどいないのだから我に返りようがない。
「おれ、正気だよ。なんか、すっごくスッキリした。そっか、慶士郎さんがやたらと格好よく見えるのは、恋だからなんだな」
「違っ……そうじゃないかもしれないだろ。自己暗示をかけんなよっ」
変に焦っているらしい秋原に、幸久は首を傾げて言い返す。
「おまえが言ったんだろ。恋だ……って」
「幸久が真に受けるなんて、思わなかったんだよっ。つーか、冷静に考えたらおかしいと思わないのかっ?」
「思わないけど。……あ、もうすぐ午後の授業が始まる。奨学金を打ち切られたら困るから、遅刻厳禁!」
腕時計を確認した幸久は、空になった食器が載ったトレイを手にして腰かけていたイスから勢いよく立つ。
「うぅ……やっぱり天然はタチが悪い。脇道っつーか、道なき荒野に向かって暴走してる幸久は高瀬さんが正しい道に戻してくれるだろうけど、メンドクセーことしやがって、って無用の恨みを買いそうだなぁ。でも、おれが悪いのか?」
なにやら苦悩しているらしく、ぶつぶつと独り言をこぼしながら頭を抱えてテーブルに突っ伏している秋原に、
「おれ、行くよ。かつ丼、ごちそうさま」
と告げて、足早に食器の返却口へと向かった。
高瀬に対する慕わしさの正体は『恋』か。
そう明確な答えが出たせいか、幸久は実に清々しい気分だった。帰国する高瀬を迎えるのが、ますます楽しみだ。
□ □ □
「秋原のせいで、慶士郎さんの顔を見たら変にドキドキしそう。つーか、一番になにを言おうかなぁ。まず、お帰りなさい……で、ビール買ってきたよ?」
急ぎ足でマンションに向かう幸久の右手で、コンビニの袋がガサガサと揺れている。中に入っている六缶パックのビールは、もちろん高瀬のためのものだ。
三日前に送られてきたメールには、帰国予定日として今日の日付しか記されていなかった。ハッキリとした帰着時間は聞いていないけれど、日付が変わらないうちにはマンションに帰ってくるだろう。
「前回帰国した時は、マンションに着いたの夜の十時過ぎだったもんなぁ。とりあえず、煮物は八割くらいできてるから……お米を洗って炊飯器を早炊きの設定にしておいて、茶碗蒸しは蒸せばいいだけの状態にしておくかな。煮物は味が染みるから早く作っておいてもいいけど、茶碗蒸しはできたてのアツアツが一番!」
そうしてのんびりと独り言をこぼしながら、普段より少しだけ早足でマンションの廊下を歩く。
ポケットから取り出した鍵を、扉の鍵穴に差し込んで捻り……手応えのなさに「あれ?」と首を捻った。
慌ててドアノブを掴んで引くと、玄関扉はあっさりと開いた。
「な、なんでっ?」
朝、出がけに自分が戸締りを失念したのでなければ、鍵を所有しているこの部屋の主が戻っているに違いない。
一歩入って視線を落とすと、玄関のど真ん中に、くたびれた大きなトレッキングシューズがある。
その脇に慌てて靴を脱ぎ捨てた幸久は、小走りで照明の灯されているリビングに駆け込んだ。
「慶士郎さん、帰ってんのっ?」
ソファの背からは、肩から上が覗いていて……テレビに向かっていた男が、ゆっくりと振り返る。
少し伸びかけた黒い髪、きりっとした涼しげな切れ長の目にスッと通った鼻筋……端整な容貌は、記憶にあるままだ。
高瀬は、国外に出ていた約一ヶ月のブランクをまるで感じさせない笑顔を向けてくる。
「おー……ユキちゃん、ただいま。つーか、お帰り。今日もご苦労さん、勤労学生」
唇から出たのは、まるで昨日もそうして幸久の帰宅を出迎えたような、のん気な言葉だ。
大学の友人からは呼ばれることのない、身内以外では高瀬しか口にしない愛称で呼びかけられた幸久は、トクンと心臓が高鳴るのを感じた。
本編へ続く








「二階堂さん、お休みって明日からでしたっけ」
頼まれていた書類を予定よりも一週間早く提出し、自分の机の上の片づけをしていると、向かいの席から声がかかった。
一つ後輩の西田だ。
時間はもう午後八時。優は帰り支度だが、彼はまだ残業なのだろう。濃そうなコーヒーが、マグカップにたっぷり入っている。
優はそれを見ながら「うん」と頷いた。
「ちょっと長い休みになるけど、不在の間はよろしく。一応、休みの間に必要になりそうなものは全部準備しておいたから」
「ええ、確認してます。にしてもそういうところ、ホント二階堂さんらしいですよね。僕だったら『旅行から帰ってやればいいや』って思っちゃうのに、用意がいいっていうか、きちんとしてるっていうか」
西田の言葉に、優は苦笑した。
よく言われる言葉だ。
そして妹にはこう付け加えられることもある。
いかにも公務員らしいよね。
──と。
その通り、優は現在国家公務員として関東財務局で働いている。
就職して六年、まずまず順調にキャリアを重ねてきたと言っていいだろう。大きな手柄を立てたことはないが、仕事が確実だ、と評価されたことは何度かあり、そのためか比較的大きな案件でも、その末席に加えられたこともあった。
パソコンの電源を落とす優に、西田は続ける。
「旅行、イタリアですよね。今の時期ってどうなんですか?」
「さあ……海外自体初めてだから何もわからないんだよね。とにかく天気がよければとは思ってるけど」
「そうですね。妹さんの結婚式ですもんね。でも二階堂さんがイタリアかあ……」
「……なに?」
含みのある言い方が気になって尋ねると、西田は「いやあ」と苦笑した。
「ほら、あっちって結構大雑把だっていうじゃないですか。西田さん真面目だからそういうところに十日もいるのって大変じゃないかなと思って」
そういうことか。
優が苦笑したとき、西田のデスクの電話が鳴る。
それを機に、優は話を切り上げ、「それじゃ」と片手を上げると、部屋をあとにした。
確かに、初めての海外だから不安はある。
とはいえ、大切な妹の結婚式だ。出ないという選択肢は最初からなかった。
優が二十歳だった八年前、両親がともに事故で亡くなって以来、優は妹の綾と二人で暮らしてきた。ときには喧嘩もしたが、仲のいい兄妹だったと思う。
そんな妹が結婚を決めたのは半年前。相手は、仕事関係のパーティーで出会ったイタリア人だという。
潤んだような大きな瞳に長い睫、滑らかな頬、華奢な体格、と、どちらかと言えば亡き母に似ている優に対し、綾は、彫りが深く華やかな面差しだった父に似ていた。
兄妹ともに語学は得意だったものの、綾の方がより洋楽や洋画を好んでいたから、両親は「ひょっとしたら綾は外国の人と結婚するのかもね」と、よく言っていたものだが、まさか本当に外国人と結婚してしまうとは思わなかった。
ずっと面倒を見ていた妹が結婚すると思うと感慨深い。
式では親代わりとして、きちんと振る舞えるだろうか。それを考えると、不安や心配もあるが、その一方で密かに楽しみにしていることもある。
優は駅までの道を足早に歩きながら、人知れず微笑んだ。
◆
──それが、一昨日のこと。
予定通り昨日無事にローマに到着して、今日。
「どれにしようかなあ……」
優は、街のケーキ店のショーケースの前で、幸せな悩みに表情をとろけさせていた。
茶と紺で統一された品のいい店内に充満しているバターと香料の香り。
それだけでもわくわくした気持ちが込み上げてくる上、ショーケースの中に並べられているケーキは、どれも綺麗で美味しそうだ。
(このミントとチョコレートのタルトがいいかなあ…でもタルトならやっぱりこっちのベリーが乗ったやつの方が……。けどせっかくローマまで来たんだし、珍しいものの方がいいのかなあ。思い出にもなるだろうし……。でも店としてはスタンダードなものの方に力を入れてるかもしれないし……)
一つ一つ丹念に眺めると、優はうっとりと溜息をつく。
優がこの旅行で密かに楽しみにしていたこと。それは、この『フローリアン』をはじめとした、甘いもの屋巡りをすることだった。
実は優は、ケーキやチョコレート、マカロンやプリンといった、甘いものが大好きだ。
ただでさえ実年齢よりも若く見られることが多い自分が甘いもの好きだと知られれば、仕事の際に侮られるかも、と懸念して誰にも話していないが、都内の有名店にはほぼ足を運んでいる。
本編へ続く
頼まれていた書類を予定よりも一週間早く提出し、自分の机の上の片づけをしていると、向かいの席から声がかかった。
一つ後輩の西田だ。
時間はもう午後八時。優は帰り支度だが、彼はまだ残業なのだろう。濃そうなコーヒーが、マグカップにたっぷり入っている。
優はそれを見ながら「うん」と頷いた。
「ちょっと長い休みになるけど、不在の間はよろしく。一応、休みの間に必要になりそうなものは全部準備しておいたから」
「ええ、確認してます。にしてもそういうところ、ホント二階堂さんらしいですよね。僕だったら『旅行から帰ってやればいいや』って思っちゃうのに、用意がいいっていうか、きちんとしてるっていうか」
西田の言葉に、優は苦笑した。
よく言われる言葉だ。
そして妹にはこう付け加えられることもある。
いかにも公務員らしいよね。
──と。
その通り、優は現在国家公務員として関東財務局で働いている。
就職して六年、まずまず順調にキャリアを重ねてきたと言っていいだろう。大きな手柄を立てたことはないが、仕事が確実だ、と評価されたことは何度かあり、そのためか比較的大きな案件でも、その末席に加えられたこともあった。
パソコンの電源を落とす優に、西田は続ける。
「旅行、イタリアですよね。今の時期ってどうなんですか?」
「さあ……海外自体初めてだから何もわからないんだよね。とにかく天気がよければとは思ってるけど」
「そうですね。妹さんの結婚式ですもんね。でも二階堂さんがイタリアかあ……」
「……なに?」
含みのある言い方が気になって尋ねると、西田は「いやあ」と苦笑した。
「ほら、あっちって結構大雑把だっていうじゃないですか。西田さん真面目だからそういうところに十日もいるのって大変じゃないかなと思って」
そういうことか。
優が苦笑したとき、西田のデスクの電話が鳴る。
それを機に、優は話を切り上げ、「それじゃ」と片手を上げると、部屋をあとにした。
確かに、初めての海外だから不安はある。
とはいえ、大切な妹の結婚式だ。出ないという選択肢は最初からなかった。
優が二十歳だった八年前、両親がともに事故で亡くなって以来、優は妹の綾と二人で暮らしてきた。ときには喧嘩もしたが、仲のいい兄妹だったと思う。
そんな妹が結婚を決めたのは半年前。相手は、仕事関係のパーティーで出会ったイタリア人だという。
潤んだような大きな瞳に長い睫、滑らかな頬、華奢な体格、と、どちらかと言えば亡き母に似ている優に対し、綾は、彫りが深く華やかな面差しだった父に似ていた。
兄妹ともに語学は得意だったものの、綾の方がより洋楽や洋画を好んでいたから、両親は「ひょっとしたら綾は外国の人と結婚するのかもね」と、よく言っていたものだが、まさか本当に外国人と結婚してしまうとは思わなかった。
ずっと面倒を見ていた妹が結婚すると思うと感慨深い。
式では親代わりとして、きちんと振る舞えるだろうか。それを考えると、不安や心配もあるが、その一方で密かに楽しみにしていることもある。
優は駅までの道を足早に歩きながら、人知れず微笑んだ。
◆
──それが、一昨日のこと。
予定通り昨日無事にローマに到着して、今日。
「どれにしようかなあ……」
優は、街のケーキ店のショーケースの前で、幸せな悩みに表情をとろけさせていた。
茶と紺で統一された品のいい店内に充満しているバターと香料の香り。
それだけでもわくわくした気持ちが込み上げてくる上、ショーケースの中に並べられているケーキは、どれも綺麗で美味しそうだ。
(このミントとチョコレートのタルトがいいかなあ…でもタルトならやっぱりこっちのベリーが乗ったやつの方が……。けどせっかくローマまで来たんだし、珍しいものの方がいいのかなあ。思い出にもなるだろうし……。でも店としてはスタンダードなものの方に力を入れてるかもしれないし……)
一つ一つ丹念に眺めると、優はうっとりと溜息をつく。
優がこの旅行で密かに楽しみにしていたこと。それは、この『フローリアン』をはじめとした、甘いもの屋巡りをすることだった。
実は優は、ケーキやチョコレート、マカロンやプリンといった、甘いものが大好きだ。
ただでさえ実年齢よりも若く見られることが多い自分が甘いもの好きだと知られれば、仕事の際に侮られるかも、と懸念して誰にも話していないが、都内の有名店にはほぼ足を運んでいる。
本編へ続く








机の上を見ればFAXの山。パソコンを見ればメールの山。そして、まだ開けてもいない分厚い図面。眉間に皺を作り、机に肘をついて仏頂面でボールペンを回す本田の前にそっとコーヒーが置かれる。まるで機嫌を窺うように彼を見るのは後輩の各務だ。
「本田さーん。そんな顔したら、綺麗な顔が台無しですよ」
「…綺麗とか言うな」
ボソリと呟く本田に、あまり絡まない方がいいと判断して各務は自分の席へ着く。といっても、彼の席は本田の前だから、どうやっても不機嫌を絵に描いたような顔を見ていなくてはならない。
建材3課の本田といえば、仕事ができるので有名であったが、同時に有名なのはその容姿だ。スレンダーな肢体と誰が見ても納得するような美形と言われる顔。男らしいというのではなく、華やかで美しい顔は女子社員の間では「王子様のよう」と言われている。ただ、本田本人をよく知る3課の人間たちは、決してその形容を彼の耳に届けてはならないと思っている。王子様的な外見とは裏腹に、彼が非常にクールで、仕事ができる分だけ他人にも厳しい人間であるのをよく知っているからだ。
「おい、各務。これ、どうなってるんだ?」
「え…あ、確認取ろうと思ったんですけど、相手がいなくて…」
その後、すっかり忘れていてやっていないとは言えず、各務は言い淀む。そんな彼に上目遣いで厳しい視線を送って、本田は「明日、朝イチでやっておけよ」と言って書類を渡そうとした。でも、各務と本田の机の間には堆く積まれた図面の山があり、その上に置くしかない。見れば、そこにも本田が各務に指示を出したままやっていない仕事を発見して、彼は溜め息をつく。
「各務。これは?」
「あ、それは…」
「こっちの書類、今日までじゃなかったか?」
「そうでした…ね」
最近、ずっと本田の眉間には皺があるのだが、それがどんどん深くなっていくのを見て、各務は逃げ出したくなる。そして、本田の方は、どうしてやってないんだ! と怒りたいのを堪えていた。
自分の直属で仕事を補助する立場にいる各務は、忙しい自分と同じように多忙を極めていて、それが彼の許容量をはるかに超えているのだとわかっていた。まだ三年目の彼にとっては、勉強中のこともたくさんあり、完璧を求める方が無理な話だろうし、毎日、自分の深夜残業につき合って最後まで残って頑張っている姿を見ている。これ以上求めてもどうしようもないだろう、というところまで来ているのは重々承知していた。
事実、オープンなフロアで見渡せる範囲に残っている人間は本田と各務の他にあと数名しかいない。時計を見れば午後十時を過ぎている。帰ってきてから次々かかってくる電話の応対に追われ、それが落ち着いたのは八時を過ぎた頃だった。それから二時間も経っているのに、いまだ片づいていない仕事に目眩がしてくる。
「これは私が出しておきますよ。…こっちも連絡取っておきますね」
とにかく急を要するものだけでも片づけようと、パソコンの画面を見た本田は、聞こえてきた声に顔を上げた。いつの間にか、各務の横には落合が立っていて、本田から渡された書類を各務から取り上げている。
「落合? どうしたんだ?」
女子社員はすでに全員が帰っているはずの時間だ。基本的に、本田は非常にフェミニストであり、年末や年度末などの極度に忙しい時期を除けば、彼女たちを遅くまで残すことに同意しない。八時になれば全員を帰らせるようにしている。
「本田さん、まだ働いてると思ったんで、差し入れです〜。各務くんの分もあるから安心してね」
そう言って、落合が差し出したのはコンビニ弁当なんかではなく、ちゃんとした折りにはいった豪華な弁当だった。どうしたのかと聞くと、課の女性陣で流行りの店に懐石を食べに行き、そこで作ってもらってきたと言う。各務は早速開いた豪華な折りに、涙を流しそうなほどに喜んでみせる。
「ありがとうございます。何日ぶりだろう。こんな豪華な晩飯。毎晩、カップラーメンかコンビニ弁当ですもんね」
「…悪いな、落合」
「いいえ。本田さんのためなら。私、なんでもしますんで」
遠慮なく言ってくださいねえ…と微笑む落合に、それ以上、何も言いたくなくて本田は視線を避けた。
落合は入社して五年目になる。昨年、結婚退職がバタバタと続いた3課では現在、一番の年長者である。短大卒である彼女は、歳は各務と一緒だがキャリアは上であるから、彼よりも業務内容に詳しく仕事を任せても不安はない。しっかりしていて、よく働く落合を信頼しているものの、本田が微妙に彼女を避けたくなるのは、「本田さんをお慕いしている」と言って憚らないからだった。
「なんでしたら、寮にご飯を作りに行きましょうか? これでも、お料理教室に通ってるんですよ」
「本当ですか? 俺、和食が好きなんです」
「各務くんに言ってるんじゃないわよ」
本田はいつもながらにさりげなく無視して、開いた折りを食べながら仕事を続ける。お茶を入れてきてくれた落合に礼を言い、早く帰るように言った。
「気をつけて帰れよ。こんな時間なんだから駅に誰か迎えにきてもらえよ」
「本当に優しいですよね。本田さんは」
なんでもないことを言ってるつもりでも、いちいち感動してみせる落合を本田は少し呆(あき)れた気分で見つめ、とにかく帰れと手を振ってみせる。
そんなふうに優しかったり冷たかったりするところがたまらない…と思いつつ、挨拶をして帰ろうとした落合は、ふと机の上に置きっぱなしになっている図面を見つけた。夕方、本田に渡した図面である。
「あ、本田さん。これ見ました?」
「いや。忙しくて…明日にでも見るよ」
「でも、急ぎだって言ってましたよ」
え…と思い、本田はいやな予感を持って図面を広げた。中に入っていた部材リストと殴り書きのようなメモに納期が書いてあって…。
「はあ!?」
大声をあげた本田に、落合と各務は揃って怯えた顔になる。眉間の皺はギリギリまで深まっていて、険悪な顔がさらに度を増している。
「す…すみません。私、言わなかったですっけ?」
「本田さん? どうした…」
二人が恐る恐るかける声は、図面を広げたまま固まっている本田には届かなかった。
彼は凝視していた納期の書かれたメモを握りつぶしたい気分になった。できるわけがない。頭からそう叫びたい気分になるような日付。
「…あの野郎…」
憎々しげに呟く本田は、図面を持ってきたという男の顔を思い浮かべて、どうしたものかと机に肘をついて頭を抱える。本田が放り出したメモを覗き込んだ二人は、その内容がわかるだけに、顔を青くした。
「…今週末って」
「今日って何曜日だっけ?」
「水曜…も終わりますねえ」
時計は十時を過ぎているのだ。明日朝イチで手配をかけたとしても、間に合うわけがない。どう足掻いても無理なものは無理だ。いい加減、あの男にもそれをわからせなくてはいけない。そう強く思うと、本田は携帯を引っ掴んだ。髪をかき上げて、相手のナンバーを呼び出すと通話ボタンを押す。何度かコール音が聞こえた後、「はい」という低い声が聞こえた。
すぐにでも文句を喚き散らしたい気分だったが、そこは社会人として耐えた。とにかく、接待の多い男だからして、遅い時間でもどんな相手と会っているかわからない。
「…どこだ?」
それでも苛ついた声は隠せなくて、短く尋ねた本田に、相手はわかっているのかいないのか本田の様子などまったく構わずに平然と返してくる。
『ちょうどよかった』
その言い方で、電話していてもまずい状況ではないのだろうと解釈し、本田は続けて話した。
「図面の件だ。話したいコトがあるから…」
『俺もある。内容が変更になった部分があってな』
「変更とかそういう問題じゃない。お前、この納期、本気なのか?」
『ああ』
「できるわけがないだろうっ!? いったい、何を考えて…」
思わず叫んでしまった本田に、相手は至って冷静に「そんなに叫ぶな」と言う。これが叫ばないでいられるかと、まだ文句を続けようとした本田に、
「叫ばなくても聞こえる」
電話を通じてでなく、生で聞こえてきた声に振り返る。背の高い男が携帯を持っていつの間にか立っていた。苦々しい思いで携帯を切り、本田は男に向き直った。
「…久遠寺」
臨戦態勢。今日こそはわからせてやる。半年間、ずっとそう思い続けてきたが、今日という今日こそは、本気ではっきり言ってやる。無理なものは無理だと、こいつにわからせてやる。そう思って、きつい瞳で本田は久遠寺を睨みつけた。
本編へ続く
「本田さーん。そんな顔したら、綺麗な顔が台無しですよ」
「…綺麗とか言うな」
ボソリと呟く本田に、あまり絡まない方がいいと判断して各務は自分の席へ着く。といっても、彼の席は本田の前だから、どうやっても不機嫌を絵に描いたような顔を見ていなくてはならない。
建材3課の本田といえば、仕事ができるので有名であったが、同時に有名なのはその容姿だ。スレンダーな肢体と誰が見ても納得するような美形と言われる顔。男らしいというのではなく、華やかで美しい顔は女子社員の間では「王子様のよう」と言われている。ただ、本田本人をよく知る3課の人間たちは、決してその形容を彼の耳に届けてはならないと思っている。王子様的な外見とは裏腹に、彼が非常にクールで、仕事ができる分だけ他人にも厳しい人間であるのをよく知っているからだ。
「おい、各務。これ、どうなってるんだ?」
「え…あ、確認取ろうと思ったんですけど、相手がいなくて…」
その後、すっかり忘れていてやっていないとは言えず、各務は言い淀む。そんな彼に上目遣いで厳しい視線を送って、本田は「明日、朝イチでやっておけよ」と言って書類を渡そうとした。でも、各務と本田の机の間には堆く積まれた図面の山があり、その上に置くしかない。見れば、そこにも本田が各務に指示を出したままやっていない仕事を発見して、彼は溜め息をつく。
「各務。これは?」
「あ、それは…」
「こっちの書類、今日までじゃなかったか?」
「そうでした…ね」
最近、ずっと本田の眉間には皺があるのだが、それがどんどん深くなっていくのを見て、各務は逃げ出したくなる。そして、本田の方は、どうしてやってないんだ! と怒りたいのを堪えていた。
自分の直属で仕事を補助する立場にいる各務は、忙しい自分と同じように多忙を極めていて、それが彼の許容量をはるかに超えているのだとわかっていた。まだ三年目の彼にとっては、勉強中のこともたくさんあり、完璧を求める方が無理な話だろうし、毎日、自分の深夜残業につき合って最後まで残って頑張っている姿を見ている。これ以上求めてもどうしようもないだろう、というところまで来ているのは重々承知していた。
事実、オープンなフロアで見渡せる範囲に残っている人間は本田と各務の他にあと数名しかいない。時計を見れば午後十時を過ぎている。帰ってきてから次々かかってくる電話の応対に追われ、それが落ち着いたのは八時を過ぎた頃だった。それから二時間も経っているのに、いまだ片づいていない仕事に目眩がしてくる。
「これは私が出しておきますよ。…こっちも連絡取っておきますね」
とにかく急を要するものだけでも片づけようと、パソコンの画面を見た本田は、聞こえてきた声に顔を上げた。いつの間にか、各務の横には落合が立っていて、本田から渡された書類を各務から取り上げている。
「落合? どうしたんだ?」
女子社員はすでに全員が帰っているはずの時間だ。基本的に、本田は非常にフェミニストであり、年末や年度末などの極度に忙しい時期を除けば、彼女たちを遅くまで残すことに同意しない。八時になれば全員を帰らせるようにしている。
「本田さん、まだ働いてると思ったんで、差し入れです〜。各務くんの分もあるから安心してね」
そう言って、落合が差し出したのはコンビニ弁当なんかではなく、ちゃんとした折りにはいった豪華な弁当だった。どうしたのかと聞くと、課の女性陣で流行りの店に懐石を食べに行き、そこで作ってもらってきたと言う。各務は早速開いた豪華な折りに、涙を流しそうなほどに喜んでみせる。
「ありがとうございます。何日ぶりだろう。こんな豪華な晩飯。毎晩、カップラーメンかコンビニ弁当ですもんね」
「…悪いな、落合」
「いいえ。本田さんのためなら。私、なんでもしますんで」
遠慮なく言ってくださいねえ…と微笑む落合に、それ以上、何も言いたくなくて本田は視線を避けた。
落合は入社して五年目になる。昨年、結婚退職がバタバタと続いた3課では現在、一番の年長者である。短大卒である彼女は、歳は各務と一緒だがキャリアは上であるから、彼よりも業務内容に詳しく仕事を任せても不安はない。しっかりしていて、よく働く落合を信頼しているものの、本田が微妙に彼女を避けたくなるのは、「本田さんをお慕いしている」と言って憚らないからだった。
「なんでしたら、寮にご飯を作りに行きましょうか? これでも、お料理教室に通ってるんですよ」
「本当ですか? 俺、和食が好きなんです」
「各務くんに言ってるんじゃないわよ」
本田はいつもながらにさりげなく無視して、開いた折りを食べながら仕事を続ける。お茶を入れてきてくれた落合に礼を言い、早く帰るように言った。
「気をつけて帰れよ。こんな時間なんだから駅に誰か迎えにきてもらえよ」
「本当に優しいですよね。本田さんは」
なんでもないことを言ってるつもりでも、いちいち感動してみせる落合を本田は少し呆(あき)れた気分で見つめ、とにかく帰れと手を振ってみせる。
そんなふうに優しかったり冷たかったりするところがたまらない…と思いつつ、挨拶をして帰ろうとした落合は、ふと机の上に置きっぱなしになっている図面を見つけた。夕方、本田に渡した図面である。
「あ、本田さん。これ見ました?」
「いや。忙しくて…明日にでも見るよ」
「でも、急ぎだって言ってましたよ」
え…と思い、本田はいやな予感を持って図面を広げた。中に入っていた部材リストと殴り書きのようなメモに納期が書いてあって…。
「はあ!?」
大声をあげた本田に、落合と各務は揃って怯えた顔になる。眉間の皺はギリギリまで深まっていて、険悪な顔がさらに度を増している。
「す…すみません。私、言わなかったですっけ?」
「本田さん? どうした…」
二人が恐る恐るかける声は、図面を広げたまま固まっている本田には届かなかった。
彼は凝視していた納期の書かれたメモを握りつぶしたい気分になった。できるわけがない。頭からそう叫びたい気分になるような日付。
「…あの野郎…」
憎々しげに呟く本田は、図面を持ってきたという男の顔を思い浮かべて、どうしたものかと机に肘をついて頭を抱える。本田が放り出したメモを覗き込んだ二人は、その内容がわかるだけに、顔を青くした。
「…今週末って」
「今日って何曜日だっけ?」
「水曜…も終わりますねえ」
時計は十時を過ぎているのだ。明日朝イチで手配をかけたとしても、間に合うわけがない。どう足掻いても無理なものは無理だ。いい加減、あの男にもそれをわからせなくてはいけない。そう強く思うと、本田は携帯を引っ掴んだ。髪をかき上げて、相手のナンバーを呼び出すと通話ボタンを押す。何度かコール音が聞こえた後、「はい」という低い声が聞こえた。
すぐにでも文句を喚き散らしたい気分だったが、そこは社会人として耐えた。とにかく、接待の多い男だからして、遅い時間でもどんな相手と会っているかわからない。
「…どこだ?」
それでも苛ついた声は隠せなくて、短く尋ねた本田に、相手はわかっているのかいないのか本田の様子などまったく構わずに平然と返してくる。
『ちょうどよかった』
その言い方で、電話していてもまずい状況ではないのだろうと解釈し、本田は続けて話した。
「図面の件だ。話したいコトがあるから…」
『俺もある。内容が変更になった部分があってな』
「変更とかそういう問題じゃない。お前、この納期、本気なのか?」
『ああ』
「できるわけがないだろうっ!? いったい、何を考えて…」
思わず叫んでしまった本田に、相手は至って冷静に「そんなに叫ぶな」と言う。これが叫ばないでいられるかと、まだ文句を続けようとした本田に、
「叫ばなくても聞こえる」
電話を通じてでなく、生で聞こえてきた声に振り返る。背の高い男が携帯を持っていつの間にか立っていた。苦々しい思いで携帯を切り、本田は男に向き直った。
「…久遠寺」
臨戦態勢。今日こそはわからせてやる。半年間、ずっとそう思い続けてきたが、今日という今日こそは、本気ではっきり言ってやる。無理なものは無理だと、こいつにわからせてやる。そう思って、きつい瞳で本田は久遠寺を睨みつけた。
本編へ続く




成田空港から、自家用ジェット機で十数時間。その後リムジンに乗り換えて、更に小一時間。
薄暗い山道を走りながら、次第に近づいてくるそれを見上げて、弓弦は呆然と呟いた。
「……あの城へ行くのか……?」
中世の山城だったのだろう。尖塔が聳えるくすんだ白い外観は、やや恐ろしさを覚えるほど古めかしく、そのぶん重みも感じられた。
主催者が借りたものなのか、それとも所有しているのだろうか。
(いかがわしいゲームのために、こんなに金をかけるなんて)
そもそも賞金だって数億、数十億……弓弦にはまったく実感できないほどの金額なのだ。主催者はどれほどの金持ちで、退廃的な人間なのかと思う。
やがてリムジンが通過すると、すぐ後ろで城門は閉ざされた。
そこから更に数分。
たどり着いた玄関には、クラシカルな燕尾服を身につけた男が待ち受けていた。
同年代の若い男──否、その表情や落ち着いた雰囲気からすれば、見た目よりもっとずっと歳はいっているのかもしれない。判別がつかなかった。
「お待ちしておりました」
上品で優雅な物腰とは裏腹に、車を降りたプレイヤーたちに、彼は言った。
「ようこそ、強姦城へ」
話は一ヶ月ほど前に遡る。
1
地下鉄の階段を下りる直前に、仁科弓弦はスマートフォンを取り出して、着信をチェックした。
(何もなし、か……)
わざわざ確認しなくても、携帯はずっと内ポケットに入れてある。何か届けばバイブですぐにわかる。
にもかかわらず、ここ数ヶ月間、一日に何度もこうして落胆するのが習慣になってしまっていた。
(別にメールを寄越せなんて、思ってるわけじゃないんだからな……!)
と、誰にともなく言い訳してはみるものの、我ながら説得力はあまりない。
あの男からの連絡を待っているのだ──と、認めないわけにはいかなかった。
高校時代の同級生で、名前を鳥羽晄平という。
当時、入学して最初の実力テストで生まれて初めて他人に首位を譲ってしまった、その他人が鳥羽だった。
以来、勉強は勿論、体力テストや球技大会、体育祭、学園祭の出しものにどっちが客を多く呼べるかまですべてを張り合ってきた。
中でも熱心だったのが、部活動だ。弓弦は剣道部、鳥羽はサッカー部でそれぞれ戦績を競い、上を目指した。おかげで互いが部長を務めた年には、両部とも全国大会にまで進むことができたほどだ。スポーツ推薦などない超進学校にしては、これは快挙と言っていい。
その後、学部は違うものの同じ大学に進み、会社は違うものの同じ丸の内に勤め──なんだかんだとつきあいが続いている。
生活圏が近いだけに、偶然会ってそのまま飲みに行くこともあれば、それ以外にも、たまに鳥羽が連絡を寄越して合流することもある。
──いつもの店で飲んでる。飲み比べしようぜ。どうせ暇なんだろ
(暇じゃない)
残業だってあるし、接待や、会社の同僚と飲んだりもするのに。
だが断れば、
──じゃあ今回は俺の不戦勝ってことで。表に白星つけとくな
などと腹立たしい返事が返ってくるので、文面に舌打ちしながらも行かざるをえなくなる。喜んで尻尾を振って駆けていくわけでは、決してない。あくまでもしかたなく。まるで餓鬼みたいな高校時代の意地の張り合いが、社会人になって五年たつ今もまだ続いているだけだ。
(──そう、だったのに)
その鳥羽からのメールが、ここ数ヶ月は途絶えている。
最初のうちは、仕事が忙しいのだろうと思っていた。
けれども半月が過ぎ、一ヶ月をこえたあたりから気になりはじめた。
(女でもできたのか?)
だとしたら、鳥羽にしてはけっこう続いていると言っていい。熱しやすく冷めやすい彼は、会うたびに違う女の話をしているのが常だったのだ。
だが今までは、恋人がいるときでも弓弦と会うペースはたいして変わらなかった。むしろまめに呼び出されては彼女自慢を聞かされ、辟易したことさえあったくらいだ。
もし女が原因だとすれば、ほかの人間と会う暇さえ惜しいほど夢中になっているということなのだろうか。
弓弦はひどく不快になった。
(……それとも俺、何かしたか?)
鳥羽を怒らせるようなことを?
本編へ続く
薄暗い山道を走りながら、次第に近づいてくるそれを見上げて、弓弦は呆然と呟いた。
「……あの城へ行くのか……?」
中世の山城だったのだろう。尖塔が聳えるくすんだ白い外観は、やや恐ろしさを覚えるほど古めかしく、そのぶん重みも感じられた。
主催者が借りたものなのか、それとも所有しているのだろうか。
(いかがわしいゲームのために、こんなに金をかけるなんて)
そもそも賞金だって数億、数十億……弓弦にはまったく実感できないほどの金額なのだ。主催者はどれほどの金持ちで、退廃的な人間なのかと思う。
やがてリムジンが通過すると、すぐ後ろで城門は閉ざされた。
そこから更に数分。
たどり着いた玄関には、クラシカルな燕尾服を身につけた男が待ち受けていた。
同年代の若い男──否、その表情や落ち着いた雰囲気からすれば、見た目よりもっとずっと歳はいっているのかもしれない。判別がつかなかった。
「お待ちしておりました」
上品で優雅な物腰とは裏腹に、車を降りたプレイヤーたちに、彼は言った。
「ようこそ、強姦城へ」
話は一ヶ月ほど前に遡る。
1
地下鉄の階段を下りる直前に、仁科弓弦はスマートフォンを取り出して、着信をチェックした。
(何もなし、か……)
わざわざ確認しなくても、携帯はずっと内ポケットに入れてある。何か届けばバイブですぐにわかる。
にもかかわらず、ここ数ヶ月間、一日に何度もこうして落胆するのが習慣になってしまっていた。
(別にメールを寄越せなんて、思ってるわけじゃないんだからな……!)
と、誰にともなく言い訳してはみるものの、我ながら説得力はあまりない。
あの男からの連絡を待っているのだ──と、認めないわけにはいかなかった。
高校時代の同級生で、名前を鳥羽晄平という。
当時、入学して最初の実力テストで生まれて初めて他人に首位を譲ってしまった、その他人が鳥羽だった。
以来、勉強は勿論、体力テストや球技大会、体育祭、学園祭の出しものにどっちが客を多く呼べるかまですべてを張り合ってきた。
中でも熱心だったのが、部活動だ。弓弦は剣道部、鳥羽はサッカー部でそれぞれ戦績を競い、上を目指した。おかげで互いが部長を務めた年には、両部とも全国大会にまで進むことができたほどだ。スポーツ推薦などない超進学校にしては、これは快挙と言っていい。
その後、学部は違うものの同じ大学に進み、会社は違うものの同じ丸の内に勤め──なんだかんだとつきあいが続いている。
生活圏が近いだけに、偶然会ってそのまま飲みに行くこともあれば、それ以外にも、たまに鳥羽が連絡を寄越して合流することもある。
──いつもの店で飲んでる。飲み比べしようぜ。どうせ暇なんだろ
(暇じゃない)
残業だってあるし、接待や、会社の同僚と飲んだりもするのに。
だが断れば、
──じゃあ今回は俺の不戦勝ってことで。表に白星つけとくな
などと腹立たしい返事が返ってくるので、文面に舌打ちしながらも行かざるをえなくなる。喜んで尻尾を振って駆けていくわけでは、決してない。あくまでもしかたなく。まるで餓鬼みたいな高校時代の意地の張り合いが、社会人になって五年たつ今もまだ続いているだけだ。
(──そう、だったのに)
その鳥羽からのメールが、ここ数ヶ月は途絶えている。
最初のうちは、仕事が忙しいのだろうと思っていた。
けれども半月が過ぎ、一ヶ月をこえたあたりから気になりはじめた。
(女でもできたのか?)
だとしたら、鳥羽にしてはけっこう続いていると言っていい。熱しやすく冷めやすい彼は、会うたびに違う女の話をしているのが常だったのだ。
だが今までは、恋人がいるときでも弓弦と会うペースはたいして変わらなかった。むしろまめに呼び出されては彼女自慢を聞かされ、辟易したことさえあったくらいだ。
もし女が原因だとすれば、ほかの人間と会う暇さえ惜しいほど夢中になっているということなのだろうか。
弓弦はひどく不快になった。
(……それとも俺、何かしたか?)
鳥羽を怒らせるようなことを?
本編へ続く








「おはよう、千尋。朝から精が出るな」
掃き掃除まで終わり、任されていた書類の整理をしようとキャビネットの扉を開けたところで、よく通るテノールが耳に届いた。
振り返るとドアのところに秀介が立って、笑みを浮かべてこちらを見ている。
形のいい眉と、少し垂れ気味の切れ長な目。通った鼻筋が知性を感じさせる秀麗な顔立ちと、撫でつけた黒髪が落ちついた清涼感を醸し出す、エレガントな容貌。シックなダークスーツを申し分なく着こなす長身の体躯。
秀介はすでに国会議員としての貫禄を十二分に漂わせている。
千尋は明るい声で挨拶を返した。
「おはようございます、先生! 今朝はお早いですね?」
「今夜はパーティーで潰れるから、朝の内に週末の勉強会の資料に目を通しておこうと思ってな。昨日、仕上がっていると言っていただろう?」
「はい、用意できています。今すぐデスクまでお持ちします!」
「いや、すぐでなくていい。コーヒーくらいは飲みたいからな」
「では、淹れてきますね」
秀介が朝一番に飲むコーヒーは、ハワイアンコナコーヒー。ブラックの濃いめが好みで、甘さ控えめのビスケットを添える。
そう頭の中で考えながら給湯室へと向かうと、先ほど入れておいた電気式ポットの水は、もう熱湯になっていた。秀介のカップとドリッパーを用意し、戸棚からフィルターとコーヒーを取り出していると。
「……っあ……!」
不意に秀介に背後から抱き締められ、千尋の口から小さく声が洩れる。
千尋の耳に口唇を寄せて、秀介が言う。
「二人きりのときに先生呼びはやめろと言ったはずだぞ、千尋」
「あの、で、でも」
「他人行儀も必要ない。私たちは、恋人同士だろう?」
「秀介、さん……」
甘く撫でるような声で言われ、チュッと耳朶にキスをされて、かあっと頬が熱くなる。
千尋の体をくるりと反転させて、秀介が囁く。
「今日もとても可愛いぞ、千尋。本当に、可愛い」
「んん、ん……」
体を抱かれてキスをされ、くぐもった吐息がこぼれる。
こんなところでキスなどしていて、誰かに見られたら大変なことになってしまう――――。
そう思いながらも、優しく蕩けるような口づけに、千尋は抗うことができない。
幼馴染で、仕事上のボスで、恋人でもある秀介。
そのキスはいつでも千尋を包み込むような愛情に満ちている。
そしてそれは、幼い頃からずっと千尋に向けられていたものだと、つきあっている今ならよくわかる。愛される喜びを存分に感じる瞬間だ。
けれど昔のことを思い出すとき、千尋の脳裏にはもう一人の男の存在が浮かんでくる。
――――勅使河原、亮介。
秀介の二つ年下の弟で、高校生だったある日、突然勅使河原の家を出てアメリカへと留学、それきり音信不通になってしまった男だ。
あれから十年近くが経つが、彼は今、どこで何をしているのだろう。もしかしたら、もう二度と二人の前には帰ってこないのだろうか。
恋人のキスにうっとりと酔いながらも、千尋はほんの少しだけ、そんなことを考えてしまうのだった。
千尋が秀介と亮介の兄弟に初めて出会ったのは、小学校低学年の頃だった。
千尋の父が病気で亡くなり、母が勅使河原の屋敷で家政婦として働き始めたのが縁で、千尋は二人と親しくなったのだ。
『へへーん! 俺の勝ちだぜ! 見たかよ兄貴!』
『……待て、亮介。おまえは近道をした。今の勝負はなしだ』
『はっ! そんなルール知るかよっ。公園通って先にゴールしたほうが勝ちだって言っただけだろ? 潔く負けを認めろよ、秀介』
『いや、絶対に認めない。おまえは不正を犯した。それは許されないことだ』
利発で大人びた印象の兄と、やんちゃだが明るく元気で人懐っこい弟。初めて一緒に遊んだときのことを、千尋は今でも思い出せる。
戦前から多くの政治家を輩出してきた名家である、勅使河原家。
東京の渋谷にあるその屋敷の傍には、大きな公園があった。その公園の反対側からスタートし、中を走り抜けて先に屋敷の門をくぐった子が勝ち、という子供らしい競争に、千尋も参加することになったのだ。
兄弟は驚くほど真剣な面持ちでレースに挑み、ほんの少し近道をした亮介が一番にゴールした。千尋は走るのが遅く、最後に門までたどり着いたのだが、二人は決着についてまったく譲らず、日が暮れるまでお互いに自分の主張をぶつけ合っていた。
そしてその後、千尋は二人が遊びや学業その他生活のあらゆる局面で常に競い合い、対抗意識を燃やしていることを知ったのだった。
恐らくそれは、年の近い兄弟ならではの強烈な対抗心だったのだろう。一人っ子の自分には感じたことのないもので、最初は少しだけ戸惑ったが、やがて千尋は二人と過ごす時間をとても楽しく感じるようになった。
千尋は元々少々内向的なところがあって、誰とでも親しくなれるようなタイプではなかったのだが、二人とも千尋にはとても優しかったし、千尋の前では肩肘を張ったりもせず、素直で前向きな姿を見せてくれたからだ。
『俺は将来、この国を動かす人間になる。辛く苦しいこともあるだろうが、千尋とはどんなときでも近くにいて、信頼し合える関係でいたいと思っている』
『千尋がいてくれると、俺、なんでか凄え落ちつくんだ。ちょっと無茶しちまっても、千尋が笑ってくれるなら大丈夫。そんな気がすんの、なんでだろうな?』
中高時代、千尋は二人にそんなふうに言われた。
二人のライバル意識の強さは相変わらずだったが、千尋としては二人のどちらとも同じくらい打ち解け、親密に友情を育んでいたつもりだし、どちらの言葉も嬉しかった。三人の関係はずっとこのまま続いていくのだろうと、千尋はなんとなくそう思っていたのだ。
だから亮介が突然アメリカへの留学を決め、もう日本へ戻ってくることもないかもしれない、と言い出したときには心底驚いた。亮介のいなくなった勅使河原の屋敷の中庭で、突然秀介に愛を告げられたことにも――――。
(もっともあのときには、返事をすることもできなかったんだけど)
三人で過ごした時間の終わりと、予期せぬ秀介からの告白。
急な状況の変化に戸惑う千尋に追い打ちをかけるように、それからほどなくして、千尋の母が不慮の事故で亡くなった。千尋は遠くの親戚に引き取られることになり、結局告白の返事もうやむやのまま、亮介ばかりでなく秀介とも離ればなれになってしまったのだ。
けれど秀介は、その後もずっと気にかけてくれていて、千尋がアルバイトをしながら苦学して地方の大学に通っている間も、卒業後一般企業で働いていた間も、折に触れ連絡をよこしてくれていた。そして半年前、父議員の後を継いですぐに千尋を秘書にと誘ってくれ、変わらぬ愛情も告げてくれた。千尋は彼の優しさにほだされるように気持ちを受け入れ、二人は恋人同士になったのだった。
秀介とは、そういう意味では昔よりもずっと深く強い絆で結ばれている。その関係に満足していればそれでいいではないかと、そう思わなくもないけれど。
(でもやっぱり、僕は亮介のことも気になるんだ)
秀介と亮介、そして自分。
三人で過ごす時間には三人なりの心地よさがあり、それは今の秀介との満ち足りた関係ともまた違う愉しさが感じられる、得難い時間だった。千尋は今、秀介と恋人同士ではあるけれど、少なくとも十年前は亮介との間にきちんとした友情を築いていたのだから、今再会したとしてもきっといい関係でいられるはずだとも思うのだ。
それに何より、二人は兄弟だ。子供の頃に母親が他界している上に父親も亡くしている。お互いがほとんど唯一の身内である兄弟なのだから、助け合って生きていけるなら、そのほうがいいに決まっている。
もしも亮介が日本に帰ってきているのなら、秀介と千尋の前にひと目でいいから顔を出して欲しい。秀介には話したことがなかったが、千尋は内心、そんなふうに思っているのだった。
「勅使河原先生、先日は大変お世話になりました。先生にお話を通していただいたおかげで、スムーズにことが運びました」
「いえ、私は何も。皆様の生活にかかわることですから、行政にひと言申したまでです。お役に立ててよかった」
「先生! お久しぶりです! 私を覚えておいでですか?」
「ええ、もちろん。その節はありがとうございました」
都心の高級ホテルの、広いバンケットルーム。
財界のパーティーに出席し、ひっきりなしに声をかけてくるゲストたちと歓談する秀介を、千尋はほんの少し離れて見守っていた。今秀介の傍についているのは、政策秘書の栗田だ。
父議員の時代から支えてくれている栗田は、五十代半ばのベテラン秘書で、過去の議員活動でかかわりのあった人物や事柄を細かく記憶しており、さりげなく秀介をサポートしている。私設秘書になったばかりの千尋には、とても真似のできない素晴らしい仕事ぶりだ。
いつかは自分も栗田のように、秀介を支えられる立派な秘書になりたい。
そう思いながら、秀介を見ていると。
「へえ、あんた本当に兄貴の秘書をやってるのか。パッと見あんまり印象が変わらねえから、幻でも見てるのかと思ったぜ」
「……っ?」
聞き覚えのある砕けた口調に驚いて、さっと声のしたほうに視線を向ける。
するとそこには、長身で肩幅の広いスーツ姿の男が立っていた。真っ白い歯を見せて明るく笑って、懐かしそうな声で言う。
「久しぶり、千尋。元気そうだな」
「亮、介?」
「んだよ、幽霊でも見たようなツラして。一応本物だぜ? あの頃より二十センチばかり背は伸びてるけどな」
そう言って人懐っこい目をして笑う姿に、目を見開く。目の前に亮介がいることが信じられなくて、千尋はふらふらと近寄って確かめるように顔を見上げた。
本編へ続く
掃き掃除まで終わり、任されていた書類の整理をしようとキャビネットの扉を開けたところで、よく通るテノールが耳に届いた。
振り返るとドアのところに秀介が立って、笑みを浮かべてこちらを見ている。
形のいい眉と、少し垂れ気味の切れ長な目。通った鼻筋が知性を感じさせる秀麗な顔立ちと、撫でつけた黒髪が落ちついた清涼感を醸し出す、エレガントな容貌。シックなダークスーツを申し分なく着こなす長身の体躯。
秀介はすでに国会議員としての貫禄を十二分に漂わせている。
千尋は明るい声で挨拶を返した。
「おはようございます、先生! 今朝はお早いですね?」
「今夜はパーティーで潰れるから、朝の内に週末の勉強会の資料に目を通しておこうと思ってな。昨日、仕上がっていると言っていただろう?」
「はい、用意できています。今すぐデスクまでお持ちします!」
「いや、すぐでなくていい。コーヒーくらいは飲みたいからな」
「では、淹れてきますね」
秀介が朝一番に飲むコーヒーは、ハワイアンコナコーヒー。ブラックの濃いめが好みで、甘さ控えめのビスケットを添える。
そう頭の中で考えながら給湯室へと向かうと、先ほど入れておいた電気式ポットの水は、もう熱湯になっていた。秀介のカップとドリッパーを用意し、戸棚からフィルターとコーヒーを取り出していると。
「……っあ……!」
不意に秀介に背後から抱き締められ、千尋の口から小さく声が洩れる。
千尋の耳に口唇を寄せて、秀介が言う。
「二人きりのときに先生呼びはやめろと言ったはずだぞ、千尋」
「あの、で、でも」
「他人行儀も必要ない。私たちは、恋人同士だろう?」
「秀介、さん……」
甘く撫でるような声で言われ、チュッと耳朶にキスをされて、かあっと頬が熱くなる。
千尋の体をくるりと反転させて、秀介が囁く。
「今日もとても可愛いぞ、千尋。本当に、可愛い」
「んん、ん……」
体を抱かれてキスをされ、くぐもった吐息がこぼれる。
こんなところでキスなどしていて、誰かに見られたら大変なことになってしまう――――。
そう思いながらも、優しく蕩けるような口づけに、千尋は抗うことができない。
幼馴染で、仕事上のボスで、恋人でもある秀介。
そのキスはいつでも千尋を包み込むような愛情に満ちている。
そしてそれは、幼い頃からずっと千尋に向けられていたものだと、つきあっている今ならよくわかる。愛される喜びを存分に感じる瞬間だ。
けれど昔のことを思い出すとき、千尋の脳裏にはもう一人の男の存在が浮かんでくる。
――――勅使河原、亮介。
秀介の二つ年下の弟で、高校生だったある日、突然勅使河原の家を出てアメリカへと留学、それきり音信不通になってしまった男だ。
あれから十年近くが経つが、彼は今、どこで何をしているのだろう。もしかしたら、もう二度と二人の前には帰ってこないのだろうか。
恋人のキスにうっとりと酔いながらも、千尋はほんの少しだけ、そんなことを考えてしまうのだった。
千尋が秀介と亮介の兄弟に初めて出会ったのは、小学校低学年の頃だった。
千尋の父が病気で亡くなり、母が勅使河原の屋敷で家政婦として働き始めたのが縁で、千尋は二人と親しくなったのだ。
『へへーん! 俺の勝ちだぜ! 見たかよ兄貴!』
『……待て、亮介。おまえは近道をした。今の勝負はなしだ』
『はっ! そんなルール知るかよっ。公園通って先にゴールしたほうが勝ちだって言っただけだろ? 潔く負けを認めろよ、秀介』
『いや、絶対に認めない。おまえは不正を犯した。それは許されないことだ』
利発で大人びた印象の兄と、やんちゃだが明るく元気で人懐っこい弟。初めて一緒に遊んだときのことを、千尋は今でも思い出せる。
戦前から多くの政治家を輩出してきた名家である、勅使河原家。
東京の渋谷にあるその屋敷の傍には、大きな公園があった。その公園の反対側からスタートし、中を走り抜けて先に屋敷の門をくぐった子が勝ち、という子供らしい競争に、千尋も参加することになったのだ。
兄弟は驚くほど真剣な面持ちでレースに挑み、ほんの少し近道をした亮介が一番にゴールした。千尋は走るのが遅く、最後に門までたどり着いたのだが、二人は決着についてまったく譲らず、日が暮れるまでお互いに自分の主張をぶつけ合っていた。
そしてその後、千尋は二人が遊びや学業その他生活のあらゆる局面で常に競い合い、対抗意識を燃やしていることを知ったのだった。
恐らくそれは、年の近い兄弟ならではの強烈な対抗心だったのだろう。一人っ子の自分には感じたことのないもので、最初は少しだけ戸惑ったが、やがて千尋は二人と過ごす時間をとても楽しく感じるようになった。
千尋は元々少々内向的なところがあって、誰とでも親しくなれるようなタイプではなかったのだが、二人とも千尋にはとても優しかったし、千尋の前では肩肘を張ったりもせず、素直で前向きな姿を見せてくれたからだ。
『俺は将来、この国を動かす人間になる。辛く苦しいこともあるだろうが、千尋とはどんなときでも近くにいて、信頼し合える関係でいたいと思っている』
『千尋がいてくれると、俺、なんでか凄え落ちつくんだ。ちょっと無茶しちまっても、千尋が笑ってくれるなら大丈夫。そんな気がすんの、なんでだろうな?』
中高時代、千尋は二人にそんなふうに言われた。
二人のライバル意識の強さは相変わらずだったが、千尋としては二人のどちらとも同じくらい打ち解け、親密に友情を育んでいたつもりだし、どちらの言葉も嬉しかった。三人の関係はずっとこのまま続いていくのだろうと、千尋はなんとなくそう思っていたのだ。
だから亮介が突然アメリカへの留学を決め、もう日本へ戻ってくることもないかもしれない、と言い出したときには心底驚いた。亮介のいなくなった勅使河原の屋敷の中庭で、突然秀介に愛を告げられたことにも――――。
(もっともあのときには、返事をすることもできなかったんだけど)
三人で過ごした時間の終わりと、予期せぬ秀介からの告白。
急な状況の変化に戸惑う千尋に追い打ちをかけるように、それからほどなくして、千尋の母が不慮の事故で亡くなった。千尋は遠くの親戚に引き取られることになり、結局告白の返事もうやむやのまま、亮介ばかりでなく秀介とも離ればなれになってしまったのだ。
けれど秀介は、その後もずっと気にかけてくれていて、千尋がアルバイトをしながら苦学して地方の大学に通っている間も、卒業後一般企業で働いていた間も、折に触れ連絡をよこしてくれていた。そして半年前、父議員の後を継いですぐに千尋を秘書にと誘ってくれ、変わらぬ愛情も告げてくれた。千尋は彼の優しさにほだされるように気持ちを受け入れ、二人は恋人同士になったのだった。
秀介とは、そういう意味では昔よりもずっと深く強い絆で結ばれている。その関係に満足していればそれでいいではないかと、そう思わなくもないけれど。
(でもやっぱり、僕は亮介のことも気になるんだ)
秀介と亮介、そして自分。
三人で過ごす時間には三人なりの心地よさがあり、それは今の秀介との満ち足りた関係ともまた違う愉しさが感じられる、得難い時間だった。千尋は今、秀介と恋人同士ではあるけれど、少なくとも十年前は亮介との間にきちんとした友情を築いていたのだから、今再会したとしてもきっといい関係でいられるはずだとも思うのだ。
それに何より、二人は兄弟だ。子供の頃に母親が他界している上に父親も亡くしている。お互いがほとんど唯一の身内である兄弟なのだから、助け合って生きていけるなら、そのほうがいいに決まっている。
もしも亮介が日本に帰ってきているのなら、秀介と千尋の前にひと目でいいから顔を出して欲しい。秀介には話したことがなかったが、千尋は内心、そんなふうに思っているのだった。
「勅使河原先生、先日は大変お世話になりました。先生にお話を通していただいたおかげで、スムーズにことが運びました」
「いえ、私は何も。皆様の生活にかかわることですから、行政にひと言申したまでです。お役に立ててよかった」
「先生! お久しぶりです! 私を覚えておいでですか?」
「ええ、もちろん。その節はありがとうございました」
都心の高級ホテルの、広いバンケットルーム。
財界のパーティーに出席し、ひっきりなしに声をかけてくるゲストたちと歓談する秀介を、千尋はほんの少し離れて見守っていた。今秀介の傍についているのは、政策秘書の栗田だ。
父議員の時代から支えてくれている栗田は、五十代半ばのベテラン秘書で、過去の議員活動でかかわりのあった人物や事柄を細かく記憶しており、さりげなく秀介をサポートしている。私設秘書になったばかりの千尋には、とても真似のできない素晴らしい仕事ぶりだ。
いつかは自分も栗田のように、秀介を支えられる立派な秘書になりたい。
そう思いながら、秀介を見ていると。
「へえ、あんた本当に兄貴の秘書をやってるのか。パッと見あんまり印象が変わらねえから、幻でも見てるのかと思ったぜ」
「……っ?」
聞き覚えのある砕けた口調に驚いて、さっと声のしたほうに視線を向ける。
するとそこには、長身で肩幅の広いスーツ姿の男が立っていた。真っ白い歯を見せて明るく笑って、懐かしそうな声で言う。
「久しぶり、千尋。元気そうだな」
「亮、介?」
「んだよ、幽霊でも見たようなツラして。一応本物だぜ? あの頃より二十センチばかり背は伸びてるけどな」
そう言って人懐っこい目をして笑う姿に、目を見開く。目の前に亮介がいることが信じられなくて、千尋はふらふらと近寄って確かめるように顔を見上げた。
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